学童の小学4年生である大翔のもとに死んだ弟の幽霊が現れる。この手の話だと死因は重要な要素であることが多いが、この子の死因はただの事故らしい。青野も交通事故だった。この作品では死は何の理由もなく平等に訪れる。死んでからが本番。
なぜこの作品では穢れが幽霊を払うのだろう。一般的には穢れはむしろ死霊が纏う要素なのでこの作品はそこが転倒している。作品としての仕掛けなのか、それとも作者の死生観が転倒しているのか。幽霊は自らの意思で化けて出るのではなく、生者の望みに呼応して出現するのもおそらく重要なポイント。
ひっそりと何やかんや